2023年6月4日主日礼拝説教
「三位一体の神による創造」
創世記1:1~3、26~27、31
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1. 神を創造主として知る
「はじめに神が天と地を創造された。」(創世記1:1)聖書はこの言葉から始まります。聖書は、私たちが神を創造主として知るために書かれています。人間を含めてすべての被造物が創造主なる神に依存しています。神に頼らずに生きていけると言える人は誰もいません。ですから創造主なる神を信じることは、人間が真に人間らしく生きるために大切なことです。
2. 神の創造的な自由と愛
神は無から創造されるお方です。神は何もに頼らず誰にも支配されず、ご自身の意志に従って行動されます。御心のままに創造するお方、これこそ神です。しかし神は無秩序に創造することはしません。神はすべて善いことのために創造します。それは神の愛から出ていることです。したがって神の創造の自由には愛の目的があります。
神はご自身の愛ゆえに、被造物に恵みを与え、支え続けています。神は自由な意志でへりくだり、愛をもって被造物に仕えています。ここに神の謙遜が表されています。真の自由は謙遜となって表れます。主イエス・キリストがしもべの姿を取って弟子の足を洗ったように(ヨハネ13:5)、神は自由なみこころを謙遜な愛として創造の働きをなさいます。それゆえ、神が造られた世界には神の秩序があり、すべての被造物が当たり前の日常を過ごせているのです(詩篇104:24)。
3. 奇跡は日常生活の中に隠れている
創造の御業は当たり前の日常の中に隠れています(詩篇19:3)。創造は奇跡です。しかし当たり前の日常が、神の驚くべき創造の御業に支えられていることを私たち人間は知りません。それがわかるのは、ただ神への信仰によるのです。ですから私たちが信仰によって生きるなら、当たり前の日常がどれほど素晴らしく、どれほど神の栄光に満ちたものかを知り、創造主をほめたたえるでしょう。
4. 神の継続的な創造と救いの働き
神は最初にだけ創造の働きをされたのではありません。神は今も創造的に働いておられます(ヨハネ5:17)。そして神はこれからも創造の働きをなさいます。聖書で救いを「新しい創造」(ガラテヤ6:15)と呼ぶように、救いも神の創造の働きと言えます。神は人間を救い、そしてこの世界を神の栄光に溢れた新しい世界に造り変えようとしておられます(イザヤ65:17)。ですから、これから先、神が素晴らしいことをしてくださる希望が私たちにはあります。
5. 三位一体の神による創造
神は父、子、聖霊の愛の交わりを内に持たれる三位一体の神です。神はこの愛をもって創造の働きをします。したがって創造の働きを三位一体的な働きとして理解することが大切です。
誤解を恐れず単純化して言えば、父は「意志(みこころ)」、子は「ことば」、聖霊は「いのち」の働きを担います。神は創造の働きにおいても「みこころ」と「ことば」と「いのち」が分離されることも相反することなく、共に働かれるということです。
6. 創造における神の意志
神は「みこころ」のままに創造します。神が「光、あれ」(創世記1:3)と言ったということは、そのように神が望まれたということです。すべては神の「みこころ」から始まります。私たちは神の「みこころ」に父なる神の働きを見ます。ですから使徒信条の冒頭で「我は天地の造り主、全能の父なる神を信じる」と告白しているのです。
7. 創造における神のことば
次に創造における神の「ことば」に着目しましょう。神は「光、あれ」と望み、そのように仰せられました(創世記1:3)。この世界は神の「ことば」によって造られました(ヘブル11:3)。ですから神の「ことば」は真実であり力があるのです。神の「ことば」は神の「意志」の表現です。この表現は芸術的表現です。ですからこの世界は神の芸術作品です。パウロが預言者イザヤの言葉に沿って、神による創造を陶器師による作品にたとえているのは(ローマ9:21)、創造を神の芸術として理解できるということを示しています。
イエス・キリストは神の「ことば」が人となって世に来られたお方です(ヨハネ1:1、14)。キリストは言葉と行いによって神の「みこころ」を表しました。キリストの人格とことばと行いのすべてに、私たちは神の創造の働きを見出すのです。
キリストは十字架において神に見捨てられて死ぬという不条理を経験しました。そして三日目によみがえり、神の創造は不条理も絶望も呪いも死もあらゆる悪をも乗り越えることができる希望の力であることをキリストは示されました。ですから、神の創造の働きを考えるとき、私たちはまず第一にキリストを入り口として考えなければならないのです。
神は創造の働きについて、「見よ、それは非常によかった」と言われました(創世記1:31)。しかし、神が創造したこの世界には、私たちが神の真実を疑いたくなる暗い側面があることも事実です。神の創造の働きは本当に善かったのだろうかと。神の創造の働きは本当に愛によるのだろうかと。神による創造を理解するためには、十字架で死なれたキリストという狭い門から入らなければなりません。キリストという狭い門から入らなければ、神による創造を真に理解することはできません。
神の創造が善いか悪いかは、私たちが裁くことではありません。私たちがなすべきことは、「それはよかった」と言われた神のことばをキリストにあって信じることです。この世界に病や障碍の体、苦しみや痛みを負って生まれた人々がいることは、誰のせいでもない。ただ神の栄光のわざが現れるために(ヨハネ9:3)と言われたキリストは、十字架を背負って死なれたお方です。この方以外の誰によっても、神の創造の真実を説き明かすことのできる方はいません。
8. 創造における神のいのち
神の「ことば」による創造の側面に注目しました。さらに神の「霊」による創造の側面に注目しましょう。
創世記1:2には「神の霊が動いていた」とあり、創造の出来事における神の「霊」の働きが言及されています。ここで神の霊は、いのちを生み出しいのちを守り、羽ばたき舞うもののように描かれています(「動いている」ヘブライ語 merchaphet。この言葉は、申命記32:11では、鷲がひなの上を羽ばたき見守る「舞う」行為に使われている)。
そして創世記2:7には、「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」とあります。この「いのち」とは生物的な生命以上のものです。ここに私たちは神の「いのち」が聖霊と関係があることを知るのです。
霊とはいのちです。そして神の「いのち」と神の「ことば」は互いに関係し合って、神の「みこころ」を実現します。詩篇33:6で「主のことばによって天は造られた。天の万象もすべて 御口の息吹(霊)によって」と、神の「ことば」と神の「いのち」の密接な関係を賛美しています。私たちが神の「ことば」を聞いたときに心の中で経験することをうまく言えず、ただ聖霊のお陰ですとしか言い様がないのは、それがいのちだからです。
神は被造物にいのちを与えました。そこに私たちは聖霊の働きを見るのです。創造とは、いのちがあることを意味します。この被造物世界には神の「いのち」が注がれています。しかしこの被造物世界は神ではなく、神によって造られた側です。ですから神と無関係に生きればいのちを失います。それが罪の結果です。しかし神から離れてさまよっていた私たちを神は見つけてくださり、私たちに新しいいのちを与えてくださいました。これも三位一体の神の創造の働きによるのです。
9. 創造主である三位一体の神への賛美
「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:36)
私たちは、素晴らしい創造の働きをされる三位一体の神から愛をいただき、神の御手の中で私たちは生かされております。私たちの希望は、創造主たる三位一体の神にあります。
神を褒めたたえましょう。